活動レポート

岡⼭⼤学 Alumni(全学同窓会)
グローバル⼈材育成⽀援事業 グローバル⼈材⾃⼰啓発奨励⾦事業 体験レポート

岡⼭⼤学工学部工学科環境・社会基盤系1年
グローバル人材育成特別コース 志田夏音

 

第75 回日米学生会議報告書

はじめに

 本報告書は、2023 年 4 月~2024 年 3 月までに日本、台湾および米国にてオンライン形式と対面形式を両方用いて実施される第 75 回日米学生会議(The 75th Japan America Student Conference)に筆者が参加した時の内容をまとめ、考察を述べるものである。構成は次の通りである。1.)参加した動機、2.)プログラム内容、3.)それぞれのプログラムの詳細と考察、4.)全体のプログラムを通じて感じたこと、5.)最後に

 

1. 参加した動機

 筆者は大学入学以前より自らの目指す将来像に英語力が必要であると考えており、2022年度 4 月岡山大学入学時に G コースへの所属を希望し、グローバル人材育成コース入門の授業を受講した。その授業の中で中澤拓也さん(第 72 回日米学生会議参加者)のお話を聞く機会があり、日米学生会議を認識し、県外の学生のみならず、海外の学生との共同生活、議論によって自らの英語力の向上の可能性を感じ、興味を持った。また、筆者は挑戦を好む性格であるのにもかかわらず、昨今の感染症の感染拡大や自らの入院、学業の影響で自主的な課外活動を諦める経験を経て、挑戦する場に飢えており、その状態が持続したまま応募期間を迎えた。加えて、日米学生会議について詳しく調べていく中で、第 75 回日米学生会議のテーマが「価値の再考、未来への思索」であり、筆者は、配属を希望する建築プログラムの中でも特に歴史的木造建築に対する興味が強く、それらの価値を現代の建築に生かしたいという漠然な考えを持っていたことから、その考えをより具体的にしたいという思いが芽生えた。以上のことから日米学生会議へ参加したい気持ちが高まり、応募に至った。

 

2. プログラム内容

 筆者が参加した第 75 回日米学生会議のプログラム日程は以下の通りである。実際にはメインのプログラムに加えて 4 月から本会議まで毎週ミーティングを行っていたが、あくまで分科会内での自主的な活動と位置付けられていたため、記載を省略する。

日付

プログラム名

場所

5 月 5-7 日

春合宿

東京

6 月 1-2 日

安全保障研修

東京

6 月 17-20 日

台湾研修

台湾

8 月 1 日

直前合宿

京都

8 月 2-26 日

本会議

京都(8/2-11)、長崎(8/11-17)、東京(8/17-26)

 筆者は上記プログラムのうち「文化と芸術分科会」に参加した。当分科会は主に文化と芸術を幅広くとらえ、主にメディアや絵画、著名な画家の本などを持ち寄って自らの文化・芸術についての考え方・捉え方の共有から議論を行った。また、本会議ではそれぞれのプログラムに対して文化と芸術の観点から分析・考察を行った。当分科会を志望した理由は、筆者は前述の通り、建築プログラムへの配属を希望しており、建築の根底にあるのはその時代の文化や芸術観であると考えている。そのため、特に興味を持つ歴史的建造物の価値を、未来に生かすことを具現化したいと考える筆者にとって、その根底に対しての議論をすることは、自らのビジョンをより明確にする有効な手段であると考えた。また、筆者は日常的に自己発生している疑問や違和感に注目し、議論を好む他者との対話を通じて自身と向き合いたい思いもあったため、幅広い分野に対応している当分科会を選んだ。

 上記のプログラムはすべて対面で行われた。筆者は岡山在住のため、それぞれのプログラムのための移動が金銭的・精神的に苦痛であった。しかし、筆者の出身地は徳島県で、あまり県外に出た経験がなかったため、本会議で訪れた都市全てになんのゆかりもなく、新鮮であった。1 つのスーツケースとリュックサック、バッグさえあればどこへでも行けるという自らの捉えた行動範囲が一気に拡大する感覚を味わうことが出来たのは岡山大学に進学したからだと思う。

 

3. それぞれのプログラムの詳細と考察

 筆者は本学 1 学期末試験により、安全保障研修(6/1-2)には参加していない。そのため、安全保障研修については概要のみ記す。

 

1) 春合宿

 4 月の選考委員会で合格となり、所定の手続きを終えた 28 名の参加者と 8 名の実行委員が初めて日本側全体で顔合わせを行う。参加者は、1 か月間かけて行われる夏の本会議を意識しながら 3 日間をかけてそれぞれの分科会で議題を見つけ、議論し、最終日にその成果を参加者や実行委員の前で発表した。その過程で日本側全体との交流、OG・OB の方々との挨拶などの行事もあった。

 4 月から春合宿まで同じ分科会の人とはオンラインで議論を進めていたが、実際に会って議論をすると、印象が変化した。春合宿では、芸術におけるプロとアマチュアの違い (分科会の中での議論)、他人の評価を気にすることの是非についての議論(分科会の枠を超えた議論)が印象に残っている。また、多くが東京近郊に住んでいるため、既に本会議前に参加者同士が知り合いであったり、対面で会っていたりと早速環境の違いを感じ、不安に思った。春合宿が始まる直前に話している様子は和気あいあいとした「普通」の大学生のように見えたが、初めての日米学生会議で経験した議論の場面(宇宙で遭難時に必要なものを必要なもの順に列挙し、NASA の結論に対して反対・自らの班の意見を他の班の人に納得させる)では、他の参加者の膨大な知識量と論理的に伝える力に筆者は大変圧倒された。中間発表では、自分の分科会の現状について他の分科会の方から意見を伺い、議論をするというものだった。他の分科会の中間発表では、専門用語が飛び交い、知らない横文字についていくこともできず、ただ茫然としてしまう場面が何度かあった。同時に、議論の場こそ「伝える」意識が必要なのではないかと考えることもあった。また、発表はあくまでも議論の副産物であることを岡山大学での授業を通じて感じ、その思いを持って参加したため、「発表のための議論」が行われていた状態に何度も異議を唱えた。参加者はその異議を投げ出すことなく、共に考えてくれた。その中で、日米学生会議は答えのない自然発生的な議論(優しさとは、都市の緑と自生する緑の違いとは、民主主義とはなど)に熱中することできる学生最後の経験であると感じた。また、過去の日米学生会議の参加者であり、現在それぞれの業種の第一線でご活躍されている方々の貴重なお話を聞き、その方々から自らの将来に対して助言をいただく、といった貴重な経験もすることができた。

 

2)安全保障研修

 日米関係を考えるとき、極めて重要となる「安全保障」についてより詳しく学ぶため、自衛隊の幹部自衛官を養成するために教育、訓練を行っている防衛大学校を訪問する。また、防衛大学校教授より特別講義を受ける他、同大学校の学生と対話の機会を設け、防衛大学生と参加者の相互理解を図ることを目的とする。

 

3)台湾自主研修

 日米学生会議の日本側参加者 36 名のうち、有志の参加者 24 名(うち外国籍 0 名)で外交部外交学院、日台交流協会台湾事務所、総督府、台湾大学などを訪れ、台湾の社会が抱えている問題や課題を現場で直接見学し、台湾の方からお話を伺い、考察する。社会問題に多角的、また実地的な側面からフォーカスできるという特性を生かし、地元の方々との交流や、有識者による講演などを通じて諸問題の本質を考える。

 台湾有事について台湾で生活する人々の考え、また、有事の際の世界への影響、台湾から見た日本といった日台関係のみにとどまらない幅広いトピックを台湾に訪れて、様々な観点から体験した。そして、その体験から自らの意見を持ち、現地の方との英語・日本語を使用しての会話を通じて発信する力を養った。また、現地の大学生との交流を通じて、日本が台湾に与えた文化的な影響や台湾の地形的特色から生まれる思考、などの共有を行った。台湾研修は、日米学生会議の本会議での日米関係に関わる議論の際に日本の状況から自分の意見を組むのではなく、世界情勢を鑑みるという新たな視点からの思考を可能にした。また、実際に台湾内の様々な場所を訪れ、それぞれで現地の方と英語を用いてお話をしたことで自らの語学力の向上がみられた。現地の大学生との交流を研修終了後も継続し、自主的に研修に参加した台湾の学生と日本の学生が参加する映画鑑賞会を企画・開催し、日台間の価値観の違い、メディアの違いなどに関して議論を行った。その後も  SNS  を用いた交流は続いている。

 

4)直前合宿

 日本側参加者で集まり、本会議に向けて最終準備を行った。

 全員の参加者と対面で会うのは春合宿ぶりとなった。日本側の参加者のみで、語学力に対する不安の共有、日本側のみでの今までの議論を振り返り、取りこぼしていた点に対して最終議論を行った。所属した分科会内では、アメリカ側の参加者の到着が近づくにつれて、日本側で行ってきた議論の提示に焦りがみられるようになり、日本側のみでの議論の速さは大きくなっていた。筆者は語学力に対しての不安が大変大きく、翌日以降の英語を用いた議論のスピードにより一層不安を抱いた。

 

5)本会議

 第 75 回日米学生会議の本会議は、2023 年 8 月 2 日(水)より 8 月 26 日(土)まで 3 都市(京都、長崎、東京)を巡り、日本を横断する形で開催された。第 75 回日米学生会議のテーマ【価値の再考、未来への思索】に基づいて各都市でプログラムが企画され、様々な議論が繰り広げられた。また、会議中の基本的な使用言語は英語であった。分科会以外でも、参加者が議題を自由に設定し、議論を行うことを目的としていた。また参加者の主体的、自発的な参加により、問題発見能力や議題設定能力を養うばかりでなく、参加者同士の交流を促し、新たな視点や発想を得ることで、会議をより充実させることも求められてた。

 

5.1 京都

 古来より日本の中心であり続け、数々の文化や歴史的建造物が存在する一方で、最先端のビジネスも注目が集まる京都で、主に文化体験のプログラムを行った。本会議最初のサイトとして、アメリカ側の参加者と日本側の参加者が仲を深めるという目的もあった。

 筆者は直前合宿で持った不安を拭いきれぬままアメリカの参加者と対面した。しかし、初日に私の JASC buddy(日本側参加者 1 名、アメリカ側参加者 1 名で構成されたバディ)がバスを降りた時に私を見つけて、駆け寄り、たくさんのお土産を渡し、少し英語で会話をしてくれて、その不安は少し和らいだ。本会議における彼との英語での会話は、私の英語力によってスピード感に欠けたが、彼が私の英語を理解しようとし、簡単な英語を用いて話をしてくれたこと、その他様々な彼の配慮のおかげで私と彼は最後までお互いを尊重しあう友人であり続けた。
 分科会での議論では、文化も、住む環境も、言語も、様々な部分が異なるアメリカ参加者たちとの議論と日本側参加者だけで行ってきた議論の方向性、トピックの選択の仕方の違いに筆者は困惑した。具体的には、発表ための議論を行い、それに付随して効率性を求めるアメリカ側に対して、日本側は今まで時間を気にせず、何度も立ち止まって、時に同じ結論にたどり着いて、1つの事柄に向き合っていた。この大きな違いから筆者は、アメリカ側と日本側は1つのグループとして、言語の違いを一つの要素として、日本側とは全く異なる新たな議論の形を時間をかけてでも見つける必要があると考えた。その一方で、言語の違いにより、発言量の差が表れ、日本側だけの議論で行っていた「全員の意見が飛び交う環境」ではなくなったが、その環境を作ることを模索する参加者もいた。その個々の意思の共有が全体で為されぬまま、筆者の中で所属分科会の議論に対して当初抱いた疑問を消化することなく、その上に新しい疑問が積み重なっていた。そして京都で学んだことの発表を行う前日まで、自分の思考に言語化の力、言語の違いが追い付かず、伝えきれず、何度も試行した。その試行と失敗の繰り返しが途方もなく、悔しかった。そして、まだ続いていく今後の議論への参加のためにも筆者には自分の思考と向き合う時間が必要であると考えた。筆者は発表の場に行かない選択をした。この選択をするにあたって、話を聞いて心から寄り添ってくれる友人たちの支えがあった。一方で、オムニバス形式のアメリカ側 1名、日本側 1名の 2 名ずつのグループでの発表だったため、分科会のメンバー、特にペアには大きな迷惑をかけた。
 プログラムについては、京都外国語大学での議論が大変印象に残っている。京都外国語大学の学生を含む 5 人ほどのグループに分かれ、1日をかけて英語での議論(グローバル化が個人や団体に対してどのような文化的な影響を及ぼすのか)を行った。1回目の議論では、一度も発言することが出来ずに、発言の意味も分からず、ただひたすら顔だけを発言者のほうに動かしていた。自分が何も出来なかったことが苦しく、悔しかった。しかし、1日英語を話すことを自らに強いると、最後のグループでの議論の時は積極的に意見を発言できるようになっていた。また、裏千家でのお茶の体験で出会った方も印象に残っている。筆者は華道が趣味のため、外国から来日なさって茶人になり、日米学生会議に英語で茶道の説明をしてくださった方に、茶花と華道の作品の違いについて、質問をした。そしてその後、お話を伺う中でお茶の持つ心地よい余白、その余白を歓迎する環境に心ひかれた。また、8月9日11時2分、長崎で黙とうをささげる県民とともに、参加者 72 名で1分間の黙とうを行いたいと考え、所属分科会に協力を求めた。黙とうを行うにあたって、筆者に様々な考えが存在し、葛藤があった。その葛藤は時間の関係で納得のいくまで思考することが出来なかった。そのため、結果として黙とうを行ったことが、よかったのか、今も分からない。

 

5.2 長崎

 佐世保、長崎市を訪れ、「平和」に対する捉え方の違いを感じるプログラムを行った。また、長崎サイトの期間は、長崎大学の学生が日米学生会議に参加したり、精霊流しの開催期間であったりと、長崎の伝統文化や地方の抱える問題を実際に見聞する機会となった。

 長崎サイトの初日、分科会で筆者がなぜ京都の発表の場にいなかったのか、日本側に向けて説明を行った。筆者は、春合宿期間中から分科会の議論で、一度止まってもう少し考えるべきだが、疑問の発言に自分の言語化が追い付いていないとき、「違和感がある」という言葉で何度も議論を止めていた。その違和感の正体を探ることは分科会にとっても、自分にとっても、今まで行ってきたことがないほどに深い議論のための、自分にしかできない方法であると思っていた。しかし、その説明を行ったことで、「違和感がある」という発言の積み重ねが、分科会の他のメンバーの筆者の意見に対する分厚い先入観を形成していることに気が付くこととなった。また、話の流れで筆者の過ごした環境と他の参加者の過ごした環境に対して無意識に優劣をつけた発言、構造としての多数派と少数派という形は、当時大きく筆者の負担となった。その一方で、筆者がその話し合いにおいて冷静であり続けたことから筆者の成長が感じられる。しかし、これらの記述は全て筆者からの目線によるものである。今振り返ると、筆者の目線から視覚的に見たものが全てではない意識はありながらも、試行の失敗の繰り返しを他者の要因に結び付けようとしていた。その後の分科会での話し合いでも、筆者の言語化力が乏しかったが故に、結果として筆者が分科会のメンバーへの「理解してくれているはず」という思考をベースとした発言が結果としてメンバーを苦しめ、筆者を苦しめていた。そのことに気が付くことが出来たのは他の分科会に所属する参加者の発言である。その参加者との対話によって、筆者の意見は納得のいく形にまとまった。このように分科会を超えた対話は大きく私の成長や新しい視点の発見につながった。他の分科会の参加者との交流は筆者にとって日米学生会議への参加で得たかけがえのないものとなった。そのため、後述する。
 こういった分科会の状況下で長崎大学の学生3 名が日米学生会議に4 日間ほど参加した。地方からの参加者がほとんどおらず、お互いが不安を持った状態であったことや、大変素敵な3 名であったことから、すぐに仲良くなった。そのうちの1 名は同分科会に所属し、それまでの状況から難しい立場を強いてしまった。しかし、その状況の中で時に励まし、時に支えてくれた。そのため、彼女との出会いを通じてより日米学生会議への参加は有意義なものであったと感じることが出来る。
 プログラムとしては、長崎原爆資料館が大変印象に残っている。広島の原爆資料館を訪れたことは何度もあったが、長崎原爆資料館を訪れるのは初めての経験であった。同じ原爆被害を受けた土地であっても、地理的要因や宗教的な要因から、考え方が広島と長崎で異なっていた。また、長崎と佐世保でも大きく原爆に対する考えが異なっていた。そして、長崎大学の学生が共に展示をめぐりながら、質問を投げかけると、すぐに答えてくれた。自らの住む町を深く知っている姿がかっこよかった。長崎歴史博物館では、長崎が鎖国の中でも他文化と関わり続けたことが身に染みてわかる機会となった。長崎はプログラム以外の経験も非常に印象深い。佐世保に滞在していた時、宿泊地が山の上にあったのだが、ペルセウス座流星群の日、満点の星と、流れ星がいた。夢中になって、二日間続けて深夜三時間、友人と星を眺め続けた。大変贅沢な時間だった。またある日には、佐世保から船で島へ行った。海での遊びももちろん楽しかったのだが、それ以上に印象に 残っているのは島から佐世保港へ向かう船での出来事である。それは「美しい」をそのまま景色にしたもので、美しいは心地よいとつながることを知った。また、筆者は佐世保で 誕生日を迎えた。同分科会のメンバーや友人たちが筆者の誕生日を1 日通して祝ってくれた。二度と忘れない素敵な誕生日になった。長崎での精霊流しでの爆竹のすさまじい音と、それらが港で解体されている姿は今でも筆者の中で咀嚼することが出来ていない。

 

5.3 東京

 世界最大級の人口を持ち、様々な面で日本社会を先導し、眠ることがない都市東京で、 多岐にわたるその魅力と存在感を享受した。参加者は、こうした環境の中でクリエイティビティを高めながらも、本会議の最後のサイトとして、全体総括を行うべく、主にそれぞれの分科会テーマに即したフィールドトリップから学びを得て、発表に向けた活動を行った。

 東京サイトの初日、筆者はこれまでの筆者自身を振り返り、東京での最後の統括に向けて一致団結すべきと考え、分科会のメンバーに謝ることを決めた。そして、長崎での発表がうまくいかなかった理由は、筆者の意見の発言により、時間がなくなったから、との考えを受けることとなった。その瞬間に筆者の張りつめていたありとあらゆる線が切れた。もう分科会の中で誰かの意見に対するフィードバックをすることはないと思った。それほどに傷ついて、諦めた。その思いのみで筆者はその話し合いを終わらせることを提案した。その時筆者は周りを見ることが出来ておらず、まだ諦めていない学生の発言の機会を奪った。そしてすぐに謝罪へ向かった。その後の彼との話し合いで何かしら現状を突破する結論が出たわけではない。ただ、その場ですぐに謝罪に動いた自分に驚きがあった。そ の後も一貫して「発表のための議論」は続き、最後の発表もそれに即したものとなった。 その中で筆者のできることを模索したが、最後まで葛藤は続き、筆者は納得をしたのか、この分科会で得たものは意義深かったのか、素晴らしい経験となったのか、今もその思考は途中のまま残っている。
 東京では、台湾研修で交流のあった学生が日本に滞在中であったため、2 人で様々な場所に行った。その1 日は私のエネルギー源となった。
 プログラムについては、フィールドトリップでteamLab☆、teamLab☆本社でお話を伺ったことが大変印象に残っている。teamLab☆では、「他者と共に、身体ごと没入し、身体で認識し、身体が世界と一体となる」をテーマとして、展示が為されていた。身体全体を用いて作品を「体験」することが初めてだったが、言葉に直結していない感覚的なものから芸術を感じる経験に、どこか懐かしさを感じた。筆者の自然に囲まれて過ごした徳島での時間がその感情を支えていたように思う。その一方で、質疑応答を通じて、芸術とビジネスが強く結びついたことで、効率や社会的価値の重みも感じた。社会人になるということは否応なしにこういったことを注視することなのかもしれない、と少し落ち込んだ。その一方で、規制や現代社会の仕組みを要素としてうまく取り込んで、やりたいことを追う、それらさえも武器にすることの難しさを知った。また、東京の文化的魅力、都市的魅力を味わうことが出来た。しかし、筆者は最終日の前日、インフルエンザ感染症により、 高熱を出し、倒れた。最後までプログラムに参加し、友人たちに直接別れを告げられなかったことに後悔がある。

 

4.全体のプログラムを通じて感じたこと

 ディスカッションを通じて、筆者自身が建築を学ぶことが出来る学科に在籍しているということもあり、建築に関わる専門知識を前提とした観点からの発言を求められることがあったが、筆者から専門知識と結び付けた意見は出すことが出来ず、求められたものに答えられないことに悔しい思いをした。
 また、筆者は本会議への参加前より、語学力に大変不安を感じていたため、岡山大学への留学生の方と週に一度1 時間ほどの英会話、語学習得に造詣の深い教授にお借りしたテキストで自らの意見が言えるようにいくつかの聞き返しのパターンや、簡単な言い回しの暗記を行ってから臨んだ。しかし、私の英語力の低さは英語での活発な議論を行うにあたっては障壁になりすぎた。その一方で、簡単な単語しか知らなかったが故に自分の意見を言いたいときに皆が理解できるように簡単なものにすることが出来たり、いざ伝わった時の喜びが誰よりも大きかったりと、英語を話そうとする、伝えようとすることによって得たもの、他の参加者に伝えたものもあったように思う。印象に残っているのは、東京で、 同じ分科会の友人に「あなたの意見は日本語にすると難しいのに、あなたが英語にするとわかりやすい、英語上手だね」と言ってくれたことだ。内容も嬉しかったが、そのことを簡単な英語で、筆者に伝えようとしてくれたことが一番嬉しかった。3 週間の伝えたくても伝わらない思いが少し救われた。
 どれほど深い知識を持っていたとて、どれほど珍しい経験をしていたとて、大学に所属している以上、社会的地位を意識して行うことのできる議論は「大学生とは思えない議論」までであって、参加者、実行委員含め所詮「大学生」である。「大学生とは思えない議論」を超えることは出来ない。その意見を持つ私にとって、本会議含む約半年の日米学生会議に参加する大きな意義は他者との対話を通じて自らの問いだけではなく自分自身ととことん向き合うことだと思う。そしてその意義は参加者によって様々だ。そのため、時に視点の違いが大きな解釈の違いを生み、衝突を生む。その衝突をその後どうするのか、どう生かしていくのか、その全ての選択さえも自身に委ねられるその特殊な環境で、私は来年実行委員として活動することを決めた。

 

5. 最後に

 日米学生会議への参加者は東京、東京近郊の学生が大変多い。第75 回日米学生会議の参加者のうち、中四国地方、九州地方含め参加者は筆者一人であった。それを含め、高度な知識が明確に見える議論の様子に孤独や引け目を少し感じていた。私もまた、当初議論での難しいカタカナや専門用語を駆使した発言を議論における良い発言としていた。その考えが違うことに気が付いたのは己の違和感と向き合ったからだ。様々な衝突や苦しみの中で自分の意見を自分の言葉で諦めずに思考すること、伝えることを貫き通した自分を誇りに思う。筆者がこのようにタフであり続けることが出来たのは、他の分科会に所属する友人たちの言葉があったからだ。筆者が日米学生会議を通じて仲良くなった友人たちは皆素敵な言葉の使い手だった。知識量が優れている人物、珍しい経験を自主的に自らの力で乗り越えている人物も、大学での学びがとても面白い人もいた。しかし、皆それを自らの中に落とし込んで、自分の意見とうまく結びつけていた。筆者はそんな友人たちの議論における姿を尊敬している。そして、そんな素敵な友人たちが、筆者の意見を面白い、素敵だと言い、筆者の議論における姿勢が自身を変えたと言ってくれる友人もいた。落ち込んでいる時は、どれだけ疲れていてもただそばで話を聞いてくれた。そして、言わないでほしいと言ったことを他者に言う者、簡単に他者からのある人に関する情報を完全に信じてしまう者も多くいた中で、そんな素敵な友人たちは筆者の苦しみを誰に拡散することなく、そっと真正面から向き合ってくれた。精神的大きな支え、上記以外にもたくさんの書ききることのできない思い出をくれた。

 最後に、その友人たち、本会議への参加に向けて相談に乗ってくださった方々、期末試験において配慮してくださった先生方、大学の友人、先輩、日米学生会議で関わった全ての方々への感謝でこの報告書を終わりとする。
 本当にありがとうございました。

 

6. 参考資料

https://jasciec.jp/74th/schedule/ 「日米学生会議公式HP」

https://www.teamlab.art/jp/e/planets/ 「teamLab 公式HP」